私の社会人になってからの人生の大半は、ガンとの戦いでした。4度ガンになってもまだ生きているなんて、よっぽど悪運が強いのだと思います。
そんな自分を知っていただくためにも、恥ずかしいですがプロフィールを公開したいと思います。

少々長くなりますが、お付き合いください。
幼少期時代
誕生


1965年9月、私は北海道の真狩村というところで生まれました。
父が中学の教師をしていたので、生まれた翌年には別の地に転勤となり、真狩村での記憶は全くありません……が、今でも出生地として、自分の中では誇りに思っています。
幼稚園
幼稚園


写真のように、私が幼少期に育った北海道後志地方には羊蹄山(蝦夷富士)という、綺麗な山がそびえています。
この羊蹄山をはさんで、真狩村とは反対側にある倶知安町に(父の転勤で)家族は引越しとなりました。
小学5年生まで、この羊蹄山の雄大さを感じ眺めながら育ちました。
小学生時代
さて、あなたは「僻地」「複式学級」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
かた田舎、都会から遠くへんぴな土地、という意味です。
そんな土地柄ですから、子供の数も少なく、ひとつの校舎に小学生と中学生が一緒に学ぶ小中学校というのが普通に存在していました。
中学生は各学年1クラスずつ、小学生は1&2年・3&4年・5&6年がそれぞれ1クラスの複式学級で構成され、全校生徒合わせて40人くらいが小中学校の規模です。



父は都会が大嫌いだったので、転勤があれば率先して僻地の学校を希望していました。
よって私は、小学生・中学生時代は全て小中学校で過ごしました。
また、悲しいことに、現在では母校すべてが廃校になってしまっています。
小学6年生で初転校
そんな環境の中で、小学6年生に初めて黒松内町の小中学校に転校を経験しました。
基本、中学教師はその地方内でしか異動しませんので、後志地方内をグルグル転校することになります。
この時の小中学校が一番小規模でした。
何と言っても、学校のすぐ横に牧場がありましたし、教員住宅のすぐ裏には、牧場の馬がいて毎日草をあげていました。
母にガンが見つかる
平穏な毎日でしたが、突如、母にガンが見つかりました。
手術・入院のため、6歳下の幼い弟を親戚に預け、私と父の二人暮らし生活(約半年)をしました。
半年後に母は無事に退院しましたが、小学6年生ながらとても不安な毎日を過ごしていたことを、今でも覚えています。
その後、母は何回か入退院・手術を繰り返すことになります……
中学生時代
中学1年生に2回目の転校


中学1年生の時に、風の強い寿都町の小中学校に転校しました。
そこはなんと、翌年には廃校になることが決まっていたのです。
中学2年生に3回目の転校


廃校を受けて、中学2年生に積丹町の小中学校に転校しました。
写真のように、積丹ブルーとも言われる国定公園がある自然に満ち溢れた町で、私はとても好きでした。
父が教師ということもあり、地元の漁師の方々から「先生、これ食べな!」と、以下のような色々な恩恵を受けていました。
- 海水浴ではウニや貝の取り放題で、浜辺で焼いてお腹いっぱい食べた
- 漁師さんが朝取れたてのウニを持ってきてくれて、朝から豪華なウニ丼
- ウニ以外にも、イカやエビなどの海産物も大量にいただいた
中学卒業までのこの2年間は、本当に海産物に恵まれた食生活を送っていました。
突発性難聴が発症
中学3年の時に、左耳が突発性難聴になりました。聴力がほとんどなくなり、常時耳鳴りがしている状態が今も続いています。
当時、札幌の大きな病院で検査を受けましたが、原因は分からず今に至っています。
高校生時代


下宿生活
小樽市内の普通科高校に合格したものの、実家が積丹町にあったため、小樽に下宿することになりました。
15歳で初めて家を出て、知らない家での生活。
高校1クラスの人数が小中学校の全校生徒並みの規模に、当時は圧倒されていました。



友達ができるかどうか、ドキドキでした。でも、同じように地方出身者の下宿生同士の友達の輪が広がって、結構楽しかったです。
中学生時代は卓球部に所属していましたが、高校生時代はひたすら帰宅部でした。
大学受験失敗
道内の理系国公立大学を受験したものの、あえなく玉砕。初めての挫折感を味わいました……
悩んだ末に私立大学には行かず、1年浪人してリベンジすることを決意しました。
浪人生時代
有意義な予備校生活
当時、札幌市内にあった『札幌予備学院』という予備校に通いました。
高校生でも大学生でもない、中途半端な立ち位置。でも、それが当時は何となく心地よく感じていました。
勉強はもちろん、これでもかというくらい取り組みました!
大学生時代


道内の理系国公立大学に入学
1985年、1年浪人の末、無事に第一志望校に合格できました!
社会人時代(担当職)


道内企業に就職
1989年4月に技術職として就職しました。
道外に就職する選択肢もありましたが、私は北海道が大好きなので、地元に骨を埋めるつもりで道内企業に就職しました。
1度目のガン


入社してすぐの1989年9月、下痢と便秘を交互に繰り返し、耐え難い腹痛に襲われたので、近くの病院を受診。
結果、大腸ガンおよび肝臓転移と診断され、余命2年の宣告を受けました。
私のガンは、もともと遺伝子の情報が少し壊れていて、人よりガンになりやすい特徴を持ち、それは母親の家系によるものだということ。
大腸の半分と肝臓の一部を切除した手術は成功したものの、「こんなんじゃあ結婚もできないだろうし、今後どうしよう」とふさぎ込んでいた時期もありました。
しかし、母親から『私たち親子がガンになっても生きているのには、きっと何か意味があるんだよ。』と言われ、その意味を確かめてみようと、気持ちを奮い立たせました。
2度目のガン


1度目のガンから約半年後の1990年6月、定期検査で肝臓に転移ガンが判明し、2度目の手術を受けることに。肝臓の75%を切除しました。
転移や再発はある程度覚悟していたものの、やはり実際に起こってみると、ショックは大きかったですね。
母の死
自分のガンと戦いながら必死に生きていた矢先、長い闘病生活の末、1995年に母が亡くなりました。最終的な死因は大腸ガンでした。
この時、今までぼんやりとしていた死に対する恐怖が、母親・遺伝系・大腸ガンというキーワードではっきりと自覚するようになりました。
しかし、不思議と自暴自棄にはならず、淡々と受け入れ生きていました。どうしてそんな境地だったのか、今でもわかりません。
恐らく、私自身がガンであることを知っており、同じ境遇のいわば戦友みたいな母とともに歩んできたからなのだと、今はそう思います。
現場でバリバリ働いて充実した日々
2度目のガンの手術から数年が経ち、最初に余命宣告された2年も、気が付けば過ぎていました。
体力も完全回復!当時流行っていたスノーボードもできるようになっていました。
この頃は30代前半で、ちょうど仕事が面白くなってきた時期。
技術職の設計担当だったので、自分の設計したモノが実際の形になって出来上がっていくのが楽しく、キツかったですがとてもやりがいを感じて仕事をしていました。
3度目のガン


そんな中の1998年、毎年行っていた大腸内視鏡検査でガンが発覚。同年9月に3度目の大腸ガンの手術を行い、約20cmほどを残して、残りの大腸を切除しました。
前年の検査で腫瘍は見つかっていたものの、切除するまでではないだろうという医師の判断に任せていたのですが、1年で腫瘍が増大、しかも悪性。
まだ若かった分、ガンの進行が予想以上に早かったとの医師の見解でしたが、なぜ3回もガンに?と思いました。
この時は入院・手術で職場にも迷惑が掛かってしまうことから、自分からガンであることを職場に公表しました。
入院中、職場の方が折ってくれた千羽鶴や励ましの言葉が、この頃の私を支えてくれました。
本店情報システム部門に異動
3度目のガンの手術から体力も回復した頃の2001年4月に、初めて本店異動となりました。
もともと入社した頃からパソコンやIT系が好きで、社内のサイト作りもしていました。
なので、自分の希望でシステム部門に行けたことが嬉しく、そこで今のスキルに紐づくベーシックな部分を蓄えられたと思っています。
結婚


2001年12月21日に入籍、翌年3月に結婚式を挙げました。
今までの病気のことを、すべて受け入れてくれた上での結婚を承諾してくれた妻には、感謝の言葉しかありません。
社会人時代(管理職)


初めての転勤
2008年4月に担当職から管理職になり、それと同時に初めての転勤を経験。
それまでは入社以来、ずっと札幌市勤務だったのですが滝川市へ。
最初の3か月は事情もあって単身赴任。その後妻が後追いで滝川市に来てくれました。
1回目の単身赴任
2011年4月に、長期間としては初めての単身赴任で函館市に。
1年だけの自宅通勤
2013年4月に札幌市勤務となり、自宅からの通勤に戻りました。
2回目の単身赴任
2014年4月に、2度目の単身赴任で(自宅からは割と近い)苫小牧市に。
管理職として満足だったこと
管理職としてのやりがいは、人を育てる喜びでした。
若手・中堅・熟練社員問わず、その人にとって適切なレベルアップを施すことは難しくもありました。
しかし、時間が掛かっても成長の証として結果を残してくれた時、今までの苦労が報われた想いで、人を育てる喜びを実感していました。
管理職として不満だったこと
働いていた会社は設備産業だったので、お客さまの土地に建設をさせていただくことが多々ありました。
しかし、過去にいい加減な仕事をした(部下ではない)先輩社員達のせいで、土地所有者と何十年にも亘るトラブルが何件も発生し、それが解決の方向に一向に進まず、そのトラブル対応を歴代の管理職が担っていました。
自分の部下のミスによるトラブル対応ならいくらでもしますが、過去の先輩社員達の尻ぬぐいが回ってくることに、責務としてわかっていても、どうしても納得できませんでした。
謝罪のため、生まれて初めて人に土下座をしたこともあります。
胸ぐらをつかまれ、殴られたこともありました。この時に、この会社を辞めよう!との思いが芽生えました。
管理職を降りてもよかったのですが、この頃、会社の経営状況に不穏な空気が流れていたので、退職するタイミングを探っていました。
4度目のガン


そんな中、2021年6月に自宅で貧血により倒れ、妻が救急車を呼んでくれて緊急搬送。結果、胃ガン(ステージ3b)と診断され、即手術を受けました。
今まで大腸には気を使っていたのですが、まさか胃とは……。転移性のものではなくあくまで原発性のガンだと。一体自分の体は何回ガンになれば気が済むんだ、と落ち込みました。
しかし、(子供はいませんが)支えてくれる妻のためにも必死に生きようと、胃の全摘手術を受け、20kgもやせた体にムチ打って、必死に体力回復に努めました。
退職を決意


4度目のガンを契機に、残された時間を有意義に過ごすことを考え退職を決意し、2024年1月に退職しました。
でも、決して人生をあきらめたわけではありません。ステージ3bのガン5年生存率は50%。
生存率50%なら生きるか死ぬか、それは普通に生きていても同じことだと思えたからです。
退職と同時に、個人事業主&個人投資家になるための準備を始め、2025年1月から活動を開始しました。
現在
以下の活動を展開しています。
- 現在も北海道に在住
- TERIOSのハンドルネームで、TERIOSNETをはじめとする各サイト&ブログを運営
- 個人事業主と個人投資家の二足の草鞋で、60代を満喫中!



私の半生はこんな感じです。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。